コラム
・社史
〜半世紀を振り返って〜
− 完 −

社史〜半世紀を振り返って〜
第5節「変革」
グループ各社の創立

現在の宮脇グループは、宮脇建設を中心として、舗装、管工事、資材販売、ソフト開発など様々な企業からなっている。

昭和23年に1つの建設会社として発足した企業がおよそ30年近くの歳月をかけてこのようにグループ化を押し進めてきたわけである。建設業という大きな領域を区分し、専門化しうるところは専門化して内容の充実を図り、それぞれが精いっぱいの働きをすることで総合的な力を貯えることがその目的だった。

ある時、宮脇敬が「建設業の歴史を見ると、分離して専門化できるものは専門化していき、分離できない部門が残って建設業になったのが現実である」と言っていたことがある。宮脇グループもこうした歴史の流れに沿って成長発展の過程を辿ってきたということだろう。しかし、単に利益を追求する為に分離独立したわけではない。それぞれの専門分野はそれぞれの会社で責任をもって注力し、それと同時にグループとして一体性を保つというのが当初からの理念だった。現在でも、人事交流はグループ各社を横断的に行われているし、グループ会議なども頻繁に持たれている。

社名を変更する

宮脇建設は、昭和53年に創立30周年を迎えた。

この時の資本金は6千万円、完工高は24億を越えた。それまで、宮脇産業という社名で多角的に営業を進めてきたが、ある時期から分社化を推し進めたことで、会社を本来の建設業に特化するという意味を込めて宮脇建設と社名を改めた。

宮脇敬、社長に就任する

昭和53年はそれまで社長を務めていた創業者 宮脇吉春が会長に就任し、宮脇敬が社長に就任した年でもある。世に言う世代交代であるが、会社の歴史にとっても非常に大きな変革の年だった。

社員持ち株制を発足させる

昭和53年に社員持株制を発足させている。その当時の持株の資格は

  • 会社在籍10年以上の者で、持株を希望する者
  • 社員一人の持株限度は資本金の2.5%以内
  • 取得については取締役会の承認事項
  • 取得・譲渡は額面金額で

というのが基本条件だった。

発足時の持株比率は、親族が93.5%、社員6.5%だったが、昭和58年には親族71.8%、社員28.2%。平成元年には親族44.7%、社員55.3%と、急速に同族会社から非同族会社へと変化している。

これらの試みは、単に社員の福利厚生のためだけにとどまらない。社員にとって会社は「理想具現の場であり、個々の理想の人生を実現し得るような媒体」でなければいけない。社員持株制もその為の一つの手段なのだ。

ある時、宮脇敬が「宮脇建設の歴史は、ある意味で壮大な実験である」と言っていたが、おそらくこの事を指しているのだろう。

資本金1億円に達する

昭和55年、第10回の増資で資本金が1億円に達した。

増資の状況を見ると、創業当時から少しずつ増資を繰り返していたが、大きく増資を始めたのは昭和52年からである。52年に増資して4千万になった後、53年6千万、54年8千万、55年1億円と急速な伸びを示している。

財務内容の充実化進む

決算報告書によると、昭和50年に8百80万円だった内部留保は、昭和53年に1億2千9百万円、昭和56年に2億8千5百万円、昭和60年に5億7千4百万円と倍々で増加し、平成5年には10億円の大台に乗せ、平成10年5月の時点でその額は14億7千8百万円に達した。

宮脇敬、空知建設業協会の理事に就任

昭和55年、宮脇敬が空知建設業協会の理事に就任した。宮脇敬はこの後、昭和61年に副会長、平成14年には会長に就任することになる。

拠点の整備を行う

宮脇建設の地域的な成長の過程は、その拠点の展開経過によって明らかにされる。

  1. 宮脇建設(株)沼田本店〜昭和23年創業、昭和53年社名を創業時の宮脇産業から宮脇建設へ変更。所在地の沼田町旭町の社屋は、現在に至るまで商法上の本店として存続している。また、建設業法上の「主たる営業所」でもある。社名変更後も沼田町旭町を本社本店として企業展開していたが、平成元年に商法上の本店登記を沼田に残したまま、札幌支店を本社に格上げした。
  2. 札幌本社〜昭和59年に札幌支店として、現在の札幌市北8条東1丁目に社屋を建設。平成元年に本社となる。
  3. 岩見沢支店〜昭和54年岩見沢営業所として現在の岩見沢市志文町に社屋建設。昭和55年岩見沢支店に格上げ登記する。その後、平成12年岩見沢技術センターとして現在に至っている。
TQCへの取り組み準備会が始まる

昭和58年、TQCの準備会が始まった。

この取り組みは、いわゆるTQC独特のパターン化した手法によって行われたが、実際はブレーンストーミングに力点が置かれていた。

当時の経験者によると、仕事の忙しい中、打ち合わせはしょっちゅう、場合によっては研修所のような所に何日も缶詰という状態だったようで、あまりいい思い出は無いようである。技術者として入社したはずなのに、予想もしないことをやらされたのだからその辺のことは容易に想像できる。しかし、こうした体験がその後の会社のあり方に大きな影響を与えていることは間違いない。

会社の基本は人であり他のものは二義的な意味しか持たない。会社の将来にとって、人材こそが勝敗の決め手になるという考え方は今も揺るぎないし、社員の採用に当たっても一貫してこの線に沿った方針を取ってきている。

TQCの第1回発表会が開かれる

昭和59年4月、本格的にTQCを導入し活動を開始した。 宮脇敬は、TQC取り組みの最初に「天は自ら助けるものを助ける」という言葉を引用して、「人を当てにしてはいけない、自己努力こそが会社の将来を開くのだ」と言っている。

テーマは工事現場の後片付け手間の削減とか、正しい名刺の出し方というようなものが多く、チーム名も「拓ちゃんチーム」とか、「戦国」とか、ぴりぴりした中にもユーモアがあった。

TQC第1回発表会
TQC第1回発表会
昭和50年代の主要な工事実績

第二次オイルショックの後、景気回復の背景を受けて、道路・下水道などのインフラ整備の推進が急速に伸びはじめる。

当社においても、従来の圃場整備事業や溜池整備事業などの農業土木関連はもとより、一般国道の改良工事、流域下水道、市町村下水道工事などを手がける事で、空知管内だけではなく近隣支庁や道内各地へと進展する足掛りになった。

また、建築においては、新たに建築課が設置され、事業の拡大を目指して本格的にスタートを切った時期でもある。

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