コラム
・社史
〜半世紀を振り返って〜
− 完 −

社史〜半世紀を振り返って〜
第1節「創業の頃」
創業の動機

宮脇建設の創業は昭和23年10月である。

その当時の沼田町は、昭和4年〜5年にかけて開削された昭和、浅野の両炭鉱が全盛期の頃で、沼田町史によると町の人口の約半分がこの方面に集中していたと記されている。

一方、市街地の方は、橋や道路などのいわゆる社会資本が未整備のうえ、農業などの基幹産業が脆弱であり、町全体の産業構造はバランスが良くなかった。

こうした中、創業者である宮脇吉春は市街地において産業を興すことで雇用問題の解決を図る必要性があると考えた。

そこで目を付けたのが当時、町の面積の80%を占めていた山林の豊富な森林資源を活用して木工製品を作ることだった。これが、宮脇産業(後の宮脇建設)の始まりである。

作っていたのはタンス・テーブル・机等の家具類、窓枠・ふすま・ガラス引き戸・フラッシュドアなどの建具類、床フローリング等である。変わったところでは、水稲の温床苗代の戸枠なども作っていた。

宮脇 吉春

宮脇 吉春

建設工事も併せてやっていて、記録によると昭和25年2月に札幌土木現業所初受注とある。創業時から木工品の制作と並行して土木工事が行われていたのである。

創業者宮脇吉春と有志12名

・創業者 宮脇吉春

宮脇家のルーツは、現在の富山県小矢部市である。宮脇吉春は沼田町史によると、明治33年北竜村字ポンニタシベツ生まれ。大正13年24才で沼田産業組合監事。大正15年沼田土功組合議員。昭和4年沼田村議会議員。このほか沼田村常設委員、学務委員などの要職や小作争議・金銭債務の調停委員などを歴任。その後、昭和14年から沼田村助役、昭和20年には村長を務め、戦後のGHQ主導による公職追放の影響で昭和21年11月辞任した。その後、復権し昭和34年から町議会議長ほか多くの公職を歴任したと記されている。

・創業に参加した有志12名

宮脇建設の創立には、代表取締役に宮脇吉春、取締役に元秩父別町長の森田清、中山好松、監査役に元沼田村長の稲垣源一、津川兼松などが参加している。株主は、これらの人のほか、津川直一、笹木清など12名となっていた。いずれも沼田町の将来を憂える同志であり、当時の北空知の錚々たる顔ぶれだった。

創業時の様子

・創業時の定款など

創業時の定款によると、資本金総額は20万円とあり、現在の1億6千万円と比較すると隔世の感がある。

当時のことを知る人は少なくなっているが、記録によると寄宿舎があり、従業員は宮脇家の人達と一緒に食事をするなど家庭的な雰囲気に満ちていた。会社というよりは、むしろ家内工業的なものだったようである。元々、雇用の場を地域に創ろう、そのことを通して地域に貢献しようというのが創業の精神だったから、こうした社員に対する待遇も自然の流れだった。

寄宿舎
寄宿舎

・当時の工事受注状況

建設業の登録をしたのが昭和24年10月17日。記録によると翌年の2月に札幌土木現業所から162万円の受注を受けている。工事内容は沼田町達布地先護岸とある。このほかに、昭和24年に、奔竜小学校新築工事83万円。秩父別町北小学校運動場新築工事246万5千円とある。

昭和26年札幌開発建設部初受注、27年に石狩川治水事務所(現在の石狩川開発建設部)より初受注、空知支庁の初受注はそれより少し遅れて昭和32年、記録には880万円とある。

吉川良一、入社する

昭和30年、吉川良一が工事係員として入社している。

吉川良一は昭和34年から専務取締役に就任、同じ年に町議会議長に選出された宮脇吉春の片腕として宮脇建設を支えた。この後、舗装工事を主体とするグループ会社に移籍することになるが、持ち前の実行力と強力な個性で業績を伸ばした。また、後に入会することになる空知建設業協会においても重責を果たし、一時期業界をリードした。この時期のグループの発展を考えたとき、吉川良一の存在は大きなものがあった。

吉川 良一

吉川 良一
北海道建築士会に入会する

昭和31年北海道建築士会北空知支部に入会。このあたりが、外部の関係団体とのつきあいの始まりである。

空知建設業協会に入会する

空知建設業協会に入会したのは、昭和34年4月である。ようやく軌道に乗りだしていた社会資本整備の機運に合わせて協会自体も成長過程にあった。

家具建具工場を閉鎖し、本格的に建設業を目指す

昭和36年、家具建具木工品加工工場を閉鎖した。年間における建設業の工事額が8,400万円を超え、会社の方向性を絞り込む必要性があったのだろう。その後、当社は全力で建設業者としての路を突き進むことになる。

ページトップへ